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人間は不可解だ
人は何不自由ない生活の中に幸せを見出せなくなった。人は身の周りの一人の人間の死を悲しめても見知らぬ百人の死を悲しめなくなった。人間は自分の置かれた環境の恒常性により、その環境下において本来発生すべき感情を失う。にも拘らず、時に人は机の奥に忘れ去られていた百円玉を見つけては大いに喜び、とある新人俳優の名前が思い出せず気になって夜も眠れない。
人間は実に不可解な生き物である。そして、俺もまたそんな人間の一人である。

あれはまだ俺が中学生の頃。世間では丁度、あの宗教団体の事件が騒がれていた最中の事であった。連日連夜マスコミに取り上げられ、ついには世界をも震撼させたあの事件。そう、その事件で世間が騒ぎ奥様方がワイドショーで新しい情報を仕入れては井戸端会議に華を咲かせている午後2時頃、授業中の俺はゲリに苦しんでいた。

もはやリミットオーバー、授業終了まで残り10分少々という状況の中、教師に事の重大さを告げてトイレへ駆け込むか、もしくは残り10分奇蹟の生還に賭けるか、俺は究極の選択を迫られていた。中学生の頃に授業中トイレへ駆け込むという行為の危険性は皆様重々承知だろう。それは学生生活における死を意味する。トイレから帰ってきた俺には不名誉な称号、つまり10年後に同窓会で会った時にも盛り返されるであろう話題としてのあだ名がつけられる。その後どんなに俺が努力しようとも拭えない過去・・・、俺はそれに耐えられまい。よって決断する。奇蹟の生還に賭けてみようと。

この瞬間俺にとって今巷で騒がれている大事件など取るに足らない。世の中のすべてを忘れ、只々一点に、そう、肛門の括約筋の引き締めのみに全神経を集中させる。あぁ時が経つのはこれほどまでに長かったであろうか。約40日間の夏休みを終え、40日間の短さを感じ、今はこうして10分間の長さを噛みしめる。その長さといったらどちらもほぼ同等とすら感じられる。・・あぁこの永遠とすら思われる10分間よ、早く過ぎ給え!!

・・・10分後、俺は賭けに勝った。時の流れはいつもと変わらず、休み時間の10分間はあっという間に過ぎ去る。そして、あの緊張は嘘であるかのように、またいつもと同じ平穏な一日が過ぎて行く。この時俺は実感できるのだ。何不自由ない平穏無事な日常の有り難味を。

人間にとって己の身に降りかかる事件以上に重要なものは無い。地球の反対側で繰り広げられる戦争よりも、将来俺らが死した後に訪れるであろう地球温暖化による土地の水没よりも、クリア目前だったドラ○エの冒険の書が何時の間にか消えている事の方が大事件なのだ。

だから人は常に問題への対応を先送りにしてきた。自分の身に降りかかって初めて事の重大さを知った。しかしこれからはそれではいけない。他人の身になって考えてみよう。自分の事のように親身になろう。結局それは、自分に降りかかる危険を未然に防ぐということ、つまり、自分を救う事へと繋がるのだから。





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