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一瞬一瞬の価値
時の不可逆性は何人たりとも変えることは出来ない。人はそれにより時に救われるが、多くの場合、人はそれにより後悔を強いられ、それを怨む。 しかし、そうあるからこそ日常の一瞬一瞬に価値があり、輝き、その一瞬一瞬を人は一生懸命に生きようと試みる。だが、人は時にその価値を見失い、その価値ある時を無駄に過ごす。そして、斯く言う俺も、度々時の不可逆性を呪う一人の人間なのだ。

それは一ヶ月近く前の事、俺は服を買いに街へ繰り出した。大した買い物ではない。ただコートの下に着るインナーを探しに行っただけの事。 ちなみに俺は見えない部分の服装にまで気を使う程お洒落さんではない。そうだ、低価格高品質をうたっている誰でも知ってる超有名東証一部上場企業のあの店で買うことにしよう。
そして俺は棚にズラリと並べられた1000円の長袖Tシャツを購入して店を後にした・・・・・。

帰りの電車の中、一日の疲れがどっと押し寄せた俺は睡魔に襲われ約30分間の睡眠に入る。電車のほどよい揺れ具合、『ガタンゴトン』と一定の周期で延々続く物音は、正に揺りかごと子守唄さながらであった。一定のリズムで続く電車の音は、母体の中・・まだ胎児だった頃の母親の心音を彷彿とさせ、人にこの上ない安心感を与える。

しかしその休息も束の間、目を開けて間もなく乗り換えの駅に到着している事に気付いた俺は、慌てて揺りかごから飛び起きた。 ・・・ギリギリの所で間に合った。一瞬の緊迫感の後こうして得られた安心感。しかし、それは俺を後悔の海へ誘う序章に過ぎなかった・・・・。


・・・・ユニ○ロの袋がない・・・・。

それに気付いた時には既に遅かった。つい数秒前まで揺りかごであったはずの電車が表情を変え、時速80Kmで俺と長袖Tシャツを引き離す。俺は恋人との永遠の別れの様に悲しみと憤りと後悔と、その他形容し難い様々な感情を押さえる術もなく、只々その離れ行く電車を呆然と眺める事しか出来なかった。

そして既に電車の通り過ぎたホームで俺は苦悩する。終点に到着した長袖Tシャツは駅員に回収されるだろう。きっと俺はそこで彼と再会できるはずだ。しかし、しかしだ、ここから終点まで時間にして約30分、往復にして1時間の距離。いや、それならまだいいだろう。だが現実には今からそこへ向かった場合に終電は無い。そこで明日向かうとして家からその駅までの時間は往復にして2時間。その時には既にあるかどうかも判らない、いやむしろあった所で1000円の長袖Tシャツをそこまでして取りに行く必要があるのか・・?しかも駅員はきっとそんな俺を見てこう思うのだ。
『たかだか1000円のTシャツそこまでして取りに来たりしてコイツ馬鹿じゃねーの?』

あぁ何故俺はレシートを袋の中に残してしまったのだろうか。持ち主を特定する為に駅員は中身を確認しているに違いないのだ。もしかしたらわざわざ取りにくるはずも無いと思って処分してしまうかも知れない。そこで俺が現れる。往復2時間の俺の旅は無駄足、加えて駅員の心の中での嘲笑を以って幕を閉じる。あぁ運命の分かれ道、行くべきか行かざるべきか・・。

人生とは決断である。人が生きる以上、その一秒一秒に決断は迫られている。そして人は殆どそれを意識することなく毎日を過ごす。そこに油断が生じる。 二度と戻る事の無い時の大切さを知るという事は、そして後悔しないという事は、その一秒一秒を考えて、考えて、慎重に、適切に行動するという事だ。しかし実際に一秒一秒に過敏に神経を尖らせ生活するというのは息苦しい。だからいいではないか。俺はこれからも大いに後悔し、失敗を恐れずにいよう。だから人生は面白い。

こうして俺は知った。たった1000円で知った。時の一瞬一瞬が輝けるのは、そこに失敗や後悔があるからだと。さすが低価格高品質のユニク○。そう、これは安い買い物だった。

P.S.
結局次の日取りに行ってみたけどやっぱりなかった。





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